RNAプラザ 東百合丘

新百合ヶ丘・たまプラーザ地域の中間くらいに位置する学習塾の塾長ブログ

知識を"暗記する"ことの意義

暗記して知識量を増やすことは「詰め込み教育」を代表としてしばしば批判されていると思います。特にインターネットが普及し、更にはスマホの浸透に伴って「調べればわかる」という主張がチカラを持っていますね。最近では某AIの登場によってますます勢いを増しているようです。

そして、そうした批判に対する反論も長年展開されてきました。最も有名なものの1つに「1秒を争う手術の判断に、5秒かけて検索するのか」といったものがあります。一瞬の判断であればインターネットも速度負けするというわけです。

 

ただ、この話には不足があります。

検索した情報は果たして正確なのでしょうか?膨大な検索結果の中から正しい情報を選ぶことが出来るのでしょうか?某AIでさえ結局は平気で誤情報を返してくるのだ、という事実は少しずつ明らかになってきました。

そう考えると、一番もっともらしいのは「正確な判断のため」に暗記するということかもしれません。複雑な判断を求められる時に、イチから調べていてはいつまで経っても"正しい"判断はできないでしょう。やはり、予め充分な量を暗記する必要があるわけです。

 

もう一つ。

判断もそうですが、調べるということは「調べる必要がある」と気づくことが出来なければなりません。知らなければ調べるべき時に気づかないのです。「これは何ですか?」と一々訊いてはくれないでしょう。訊かれなければ調べ時が分からない、ということであれば……インターネットを使うときには物事が終わっているはずです。

 

もちろん、教科書的な話を片っ端から全て暗記して、それを忘れずにいるということが良いわけでもないですね。一問一答で答えられればそれで良いというわけではない、というのが本来の詰め込み教育批判です。気づくにしろ判断にしろ、何かしら使えるところがなければただのクイズ王です。

 

暗記が全てではないが、暗記がないと始まらない。

英単語を知らなければ、翻訳AIが間違っていても気づかないわけです。